寮祭とは

寮祭とは何か。端的に言えば、皆がやりたいことを持ち寄り、それを皆で全力で実現する場。しかしこの解釈を支えるのは、いくつかの「熊野寮哲学」とも呼ぶべきものだろう。

まず、熊野寮が自治寮であるということ。自らの生活の場を自らで治める、この日々の中で豊かさが生まれる。ここで大切なのは、「自ら」というのが個人を指すのではなく、420人あまりを含む全寮であるということだ。人が集まり、個性をぶつけ合い、進む道を手探りで切り開いていく。そして多様な化学反応が生まれ、一人の考えを超える思いもよらないアイデアへと繋がる。この反応を祭りという方向に集約させ、京都の冬空に花火のように熱く派手に打ち上げるのがこの熊野寮祭。ともすれば日常に埋没していく熊野寮での日々の豊かさを、再確認する場だ。奇祭は脱線ではなく、寮生活の延長線上にある。

そして自由は本来、誰の手の中にもあるということ。人は往々にして自由を手放す。社会に妥協したり、あるいはその大切さに気付かぬまま手から零れ落ちていたり。しかし自治に生きる寮生の手の中には、絶えず自由の灯がある。これをさらに大きな篝火にして、寮外の人々の手に移す。外を巻き込んだ、自由の伝播。これも寮祭の大切な一側面だ。

ではそもそも、自由とは何か。ただ好き勝手にやるのは自由の冒瀆だ。本来の自由は理性を失うことではなく、社会の規範に縛られた理性を解放することである。思い描いたものを実現することである。だから我々はこの祭で、日頃我々を縛る何かに一致して抵抗し、忘れかけていた創造性や遊び心、阿呆さ、馬鹿さ、「おもろさ」を発揮する。人間は、もっと自由でいい。輝けるくだらなさを、もっと現実のものにしていい。その意味で寮祭は人間解放の闘いである。そして社会の中の奇異な存在として、社会に貢献し、還元する。

さぁ全人類よ、寮生・寮外生の境を壊し、心に眠る自由、すなわち理性ある野心をたぎらせよ。